2011年12月22日木曜日

勤労奉仕団の始まり


明日は天皇陛下の誕生日です。

皇室のことを知りましょう!
知るほどに面白い『日本』 日本を知る会メールマガジンNo107より
~始まりの勤労奉仕~
昭和20年・東京
かつて帝都とよばれた首都東京は度重なるBー29の空襲により焦土と化していました。
皇居もまた、この空襲から逃れることは出来ず、明治時代に建てられた端正雄大な宮殿は焼け落ち、外も内も荒れ放題。
昭和天皇は、吹上御苑内の御文庫内で暮らしていました。
そんな時代の昭和20年11月22日。国破れGHQの占領下にあったこの日。
皇居に2人の青年がやって来ました。1人は、宮城県栗原郡の青年団運動のリーダー鈴木徳一氏もう1人は宮城県栗原郡出身で、東久邇宮内閣の緒方竹虎国務大臣の秘書官だった長谷川峻氏、彼らは、対応に当たった筧素彦総務課長(当時)に次のような申し出をしました。
「皇居前広場が戦災のため荒廃し見る影もなく、おいたわしい限りであるので、是非清掃をさせていただきたい。」と皇居の清掃を申し出たので、地元には、皇居の清掃にあたりたいと願う青年男女がすでに60名いるというのです。
この申し出に対し筧氏は「この申し出を組織の意思決定の形で許可を出したら、GHQの占領下、万が一の場合、上に迷惑が及ぶかもしれない」と考え、信頼するただ1人の上司に話しをし内諾を得て、その場で許可を出したのでした。
天皇陛下のお側で仕える宮内省に、前例のない申し出をしたのだから、許可まで時間がかかると思っていた2人は、これには驚きを隠せませんでした。
かくして、青年団の草刈は12月8日に決まったのでした。
皇居り草刈のために上京する青年達の集まりは「皇国(みくに)奉仕団」
団長 鈴木徳一 副団長 長谷川峻の下男性55名、女性7名の計62名それに、オブザーバーとして早大教授木村毅が加わっていました。
当時はアメリカの占領下で国家主権のない時、皇居の各門にもMPが立っている状況でした。ですので、GHQが、彼ら奉仕団にどのような対応をとるかも分からないので数名の女子の中には両親と水盃を酌み交わしてきた人もいました。
そして12月8日
皇居坂下門に到着した「皇国奉仕団」一行は門衛の皇居警察官を通して次のように申し出をしました。
「私たちは宮城県栗原郡の各村の者ですありますが、二重橋前の広場に雑草が生い茂っていて、大変荒れているということを聞きましたので、草刈やお掃除のお手伝いのために上京しました。」
この知らせを筧素彦総務課長から聞き、対応にでてきた木下道雄侍従次長(当時)は、彼らが思ってもいなかった提案を口にしました。
「一同の厚意に謝するとともに、遠路はるばる上京されたのだから、二重橋前もさることながら、皇居の内は人手不足のため、宮殿の焼け跡には、いまだ瓦やコンクリートの破片がいたるところに山積みしている。
どうか皇居内にきて、それを片付けて下さらぬか」と、この思いがけない申し出に青年団の人たちは感激したいそう喜んだそうです。
そして、奉仕初日、一同にとってさらに驚くべきことが起きたのでした。正午過ぎ、皇居内に入り宮殿の焼け跡整理をしていた奉仕団の所に、奉仕団の事を聞いた天皇陛下がやって来られたのでした。
陛下が来られたことに奉仕団の人々が驚く中、お付の人から呼ばれた鈴木氏が陛下の御前に行くと「作の状況はどうか、栗原郡はどういうところか」などど御下問を受けました。
このように、陛下との会話は約30分ほど行われ、
「ご苦労」といって、御政務所へお帰りになられる時、奉仕団の間から「君が代」が沸き起こりました。
この時、陛下は立ち止まり、じっと聞き入っておわれたそうです。
そして、「君が代」を歌う人々の目には、いつしか大粒の涙が光っていたそうです。
また、陛下が去った後に、香淳皇后も同じ場所にお出ましになられ、8名の女子団員に声をかけ、労をねぎらいました。
これが、今に続く「皇居勤労奉仕団」の始まりでした。
この「皇国奉仕団」の事が、各地に知れ渡ると「皇居へ奉仕に伺いたい!」と、次々と奉仕団が結成され、宮内庁に申し出が殺到!
翌21年には188の奉仕団から申し出があり、一万人余の人々が勤労奉仕に参加しました。
そしてピークは昭和26年で、831団体、4万人近くの人々が奉仕活動をしたのでした。
第一次世界大戦のドイツ、そして、第二次大戦のイタリアと、国の総力戦で敗れた君主制はみな滅びています。
なのに、日本では天皇に対する反対行動も起きず(共産党とかは除く)、それどころか旅費や食費、宿代すべて、自己負担にもかかわらず、奉仕団が結成され次から次へと皇居にボランティアでやってきて清掃活動をするのですから、当然の如くGHQは「背景に強力な組織があり、巨額な資金を使い何かよからぬことを企んでいるんじゃなかろうか?」疑念に思い独自に調査を行いました。
しかし、当然の如く、何も見つかりませんでした。
当然です。
そこには、国民を想う天皇と天皇・皇室を想う国民との純粋な絆しかなかったのですから・・・・・
-----------------------------------
昭和天皇、昭和二十一(1946)年の御製
戦に やぶれし後の 今もなほ 民のよりきて ここに草とる

をちこちの 民のまゐきて うれしくも 宮居のうちに 今日もまた会ふ
-----------------------------------
「荒廃したた皇居をなんとかしたい」と、いう宮城県の青年達の熱い想いから始まった皇居勤労奉仕。
平成の現在に至るまで、一度も途切れることなく続いており、昭和20年から現在までで約120万人の人が勤労奉仕に参加しています。
ちなみに、現在の、勤労奉仕は、15人以上から申し込めて、平日の4日間,皇居と赤坂御用地で除草,清掃,庭園作業などを行います。 
天皇陛下に間近で会える数少ない機会なので、参加してみたい人は宮内庁のHPで仔細を確認して参加してみてはいかがでしょうか?
参考資料・サイト
「勤労奉仕」誕生秘話
高森明勅 SAPIO 2009年2月11-18日合併号
宮内庁HP
www.kunaicho.go.jp/
仙台・宮城・東北を考える おだずまジャーナル
http://plaza.rakuten.co.jp/odazuma/diary/200908060000/

0 件のコメント:

コメントを投稿