2011年12月29日木曜日

仕事納め

今日は仕事納めです。
今年は震災の影響があり、建設現場は一時パニックに陥りました。
建設途中の現場では資材がない。ユニット物の部品がそろわないので納品できない。計画停電で道具が使えない。などなど・・・・
その後は少しずつ物資が入荷し始め、上棟延期の物件も工事を始め順調に平時の用になっていきました。
しかし、その後の台風の影響で屋根の工事店が受注オーバーになって未だに工事は遅れがちになっています。
板金、瓦工事店では台風後の修理の為の見積もりが100件を超えている店もあるようです。
新築現場の順調な快復には未だ先が見えていません。

また、今年は秦野市議会議員選挙が行われ、大勢の方々にお世話になりました。
秦野市の予算編成が行われていますが、大変厳しい財政運営が予想されます。何が必要で何が無駄なのかしっかりと議論していかなければなりません。
市長には秦野市の未来像をどのように描き、どのように導いていくのか問いただしていきます。

平成二十四年が良い年になるように願います。

2011年12月27日火曜日

新政クラブ、本年最後の街頭演説

新政クラブ、本年最後の街頭演説を行いました。
今年は市議会議員選挙が行われ、改選後に新たに新政クラブを結成しました。
旧市政会が行っていた、毎議会終了後行っていた街頭からの市政報告を継承しています。
今日は会派構成メンバー6名の参加の下行われました。
私は一般質問で質問した、朝礼について、ラジオ体操について、領土教育について、成人式について、式典における国旗式の掲揚について報告しました。



2011年12月24日土曜日

秦野リトルシニア野球協会グランド納め

本日、秦野リトルシニア野球協会ではグランド納めを行いました。
一年間グランドを使わせていただいた感謝と来年への誓いを新たにしました。
年が明けると3年生は高校受験、入学と慌ただしい生活が待っています。
新年からは高校野球へ向けて準備を整えて、体作りをしっかりとして欲しいです。
2年生は春の大会が2月から始まります。休みの間も自己練習に励むよう激励をしました。
1年生はこの8ヶ月で大変たくましくなりました。2年生になると一段と成長する次期になりますので、怪我に気をつけて切磋琢磨するように激励しました。
今日は、親子対決などのソフトボール大会も同時に行い、賑やかなうちにグランド納めを終えることができました。
来年も秦野シニアの活躍に期待します。
頑張れ秦野シニア!!

2011年12月23日金曜日

天皇誕生日を祝いましょう。

本日23日は「天長節」。
今上陛下のお誕生をお祝いする、とってもおめでたい日です。
美しい日の丸、国旗を家庭に掲げて、お祝いを致しましょう。

友基の会相原会長など6名で一般参賀に行きました。

今年は震災もあり、日本人には忘れられない一年になりました。
天皇陛下も体調を崩し入院もいたしました。
今日の一般参賀には元気な姿でお出ましになり、お言葉を頂きました。
高齢になり無理をなさらずに、いつまでも私たちを見守りくださることを願っています。

2011年12月22日木曜日

勤労奉仕団の始まり


明日は天皇陛下の誕生日です。

皇室のことを知りましょう!
知るほどに面白い『日本』 日本を知る会メールマガジンNo107より
~始まりの勤労奉仕~
昭和20年・東京
かつて帝都とよばれた首都東京は度重なるBー29の空襲により焦土と化していました。
皇居もまた、この空襲から逃れることは出来ず、明治時代に建てられた端正雄大な宮殿は焼け落ち、外も内も荒れ放題。
昭和天皇は、吹上御苑内の御文庫内で暮らしていました。
そんな時代の昭和20年11月22日。国破れGHQの占領下にあったこの日。
皇居に2人の青年がやって来ました。1人は、宮城県栗原郡の青年団運動のリーダー鈴木徳一氏もう1人は宮城県栗原郡出身で、東久邇宮内閣の緒方竹虎国務大臣の秘書官だった長谷川峻氏、彼らは、対応に当たった筧素彦総務課長(当時)に次のような申し出をしました。
「皇居前広場が戦災のため荒廃し見る影もなく、おいたわしい限りであるので、是非清掃をさせていただきたい。」と皇居の清掃を申し出たので、地元には、皇居の清掃にあたりたいと願う青年男女がすでに60名いるというのです。
この申し出に対し筧氏は「この申し出を組織の意思決定の形で許可を出したら、GHQの占領下、万が一の場合、上に迷惑が及ぶかもしれない」と考え、信頼するただ1人の上司に話しをし内諾を得て、その場で許可を出したのでした。
天皇陛下のお側で仕える宮内省に、前例のない申し出をしたのだから、許可まで時間がかかると思っていた2人は、これには驚きを隠せませんでした。
かくして、青年団の草刈は12月8日に決まったのでした。
皇居り草刈のために上京する青年達の集まりは「皇国(みくに)奉仕団」
団長 鈴木徳一 副団長 長谷川峻の下男性55名、女性7名の計62名それに、オブザーバーとして早大教授木村毅が加わっていました。
当時はアメリカの占領下で国家主権のない時、皇居の各門にもMPが立っている状況でした。ですので、GHQが、彼ら奉仕団にどのような対応をとるかも分からないので数名の女子の中には両親と水盃を酌み交わしてきた人もいました。
そして12月8日
皇居坂下門に到着した「皇国奉仕団」一行は門衛の皇居警察官を通して次のように申し出をしました。
「私たちは宮城県栗原郡の各村の者ですありますが、二重橋前の広場に雑草が生い茂っていて、大変荒れているということを聞きましたので、草刈やお掃除のお手伝いのために上京しました。」
この知らせを筧素彦総務課長から聞き、対応にでてきた木下道雄侍従次長(当時)は、彼らが思ってもいなかった提案を口にしました。
「一同の厚意に謝するとともに、遠路はるばる上京されたのだから、二重橋前もさることながら、皇居の内は人手不足のため、宮殿の焼け跡には、いまだ瓦やコンクリートの破片がいたるところに山積みしている。
どうか皇居内にきて、それを片付けて下さらぬか」と、この思いがけない申し出に青年団の人たちは感激したいそう喜んだそうです。
そして、奉仕初日、一同にとってさらに驚くべきことが起きたのでした。正午過ぎ、皇居内に入り宮殿の焼け跡整理をしていた奉仕団の所に、奉仕団の事を聞いた天皇陛下がやって来られたのでした。
陛下が来られたことに奉仕団の人々が驚く中、お付の人から呼ばれた鈴木氏が陛下の御前に行くと「作の状況はどうか、栗原郡はどういうところか」などど御下問を受けました。
このように、陛下との会話は約30分ほど行われ、
「ご苦労」といって、御政務所へお帰りになられる時、奉仕団の間から「君が代」が沸き起こりました。
この時、陛下は立ち止まり、じっと聞き入っておわれたそうです。
そして、「君が代」を歌う人々の目には、いつしか大粒の涙が光っていたそうです。
また、陛下が去った後に、香淳皇后も同じ場所にお出ましになられ、8名の女子団員に声をかけ、労をねぎらいました。
これが、今に続く「皇居勤労奉仕団」の始まりでした。
この「皇国奉仕団」の事が、各地に知れ渡ると「皇居へ奉仕に伺いたい!」と、次々と奉仕団が結成され、宮内庁に申し出が殺到!
翌21年には188の奉仕団から申し出があり、一万人余の人々が勤労奉仕に参加しました。
そしてピークは昭和26年で、831団体、4万人近くの人々が奉仕活動をしたのでした。
第一次世界大戦のドイツ、そして、第二次大戦のイタリアと、国の総力戦で敗れた君主制はみな滅びています。
なのに、日本では天皇に対する反対行動も起きず(共産党とかは除く)、それどころか旅費や食費、宿代すべて、自己負担にもかかわらず、奉仕団が結成され次から次へと皇居にボランティアでやってきて清掃活動をするのですから、当然の如くGHQは「背景に強力な組織があり、巨額な資金を使い何かよからぬことを企んでいるんじゃなかろうか?」疑念に思い独自に調査を行いました。
しかし、当然の如く、何も見つかりませんでした。
当然です。
そこには、国民を想う天皇と天皇・皇室を想う国民との純粋な絆しかなかったのですから・・・・・
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昭和天皇、昭和二十一(1946)年の御製
戦に やぶれし後の 今もなほ 民のよりきて ここに草とる

をちこちの 民のまゐきて うれしくも 宮居のうちに 今日もまた会ふ
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「荒廃したた皇居をなんとかしたい」と、いう宮城県の青年達の熱い想いから始まった皇居勤労奉仕。
平成の現在に至るまで、一度も途切れることなく続いており、昭和20年から現在までで約120万人の人が勤労奉仕に参加しています。
ちなみに、現在の、勤労奉仕は、15人以上から申し込めて、平日の4日間,皇居と赤坂御用地で除草,清掃,庭園作業などを行います。 
天皇陛下に間近で会える数少ない機会なので、参加してみたい人は宮内庁のHPで仔細を確認して参加してみてはいかがでしょうか?
参考資料・サイト
「勤労奉仕」誕生秘話
高森明勅 SAPIO 2009年2月11-18日合併号
宮内庁HP
www.kunaicho.go.jp/
仙台・宮城・東北を考える おだずまジャーナル
http://plaza.rakuten.co.jp/odazuma/diary/200908060000/

2011年12月21日水曜日

稀有な運命で救われた日本人


知るほどに面白い『日本』   日本を知る会メールマガジンNo109より
 1993年のパリ・ダカールラリーでの話。
 日本人のアマチュア・ドライバーが運転する四輪駆動車が、モーリタニアの最西端ヌアジブから首都ヌアクショットに向かう途中、マンガール村という小さな漁村近くで、砂漠に突き出た岩山に激突、大破した。
 ドライバー、ナビゲーターともに複雑骨折などの重傷を負ったが、車はペシャンコで、自力で車外に出ることもできない。発見が遅れれば死んでいただろう。が、運よくそこに、ラクダを引いたひとりの少年が通りかかった。
 惨状を目にした少年は、自分の村まで取って返すと、「お父さんたちが乗っている漁船と同じマークの付いた自動車が岩に突っ込んだ。早く助けてあげて」と叫んで回った。漁船と同じマークとは、日本の国旗のことである。
 「日本の車」と聞いて、村人たちはスワッ一大事。漁に出ている者も呼び戻すと、村人総出で救出に向かった。2人の日本人は、村から軍の駐屯地へ、さらにヘリコプターで病院へと迅速に搬送され、そのお陰で2人とも一命を取り止めることができたのだった。
 ところで、マンガール村の人たちはなぜ、「日本の車」と聞いて救出に躍起になったのか。なぜ漁船に日の丸が貼ってあったのか。その理由を知る日本人は少ない。事故に遭った日本人がその理由を知ったのも、後のことだった。
 この村では、ほとんどの人が漁業で生計を立ててきたが、漁船といっても小さな手漕ぎボートしかなかったために、大西洋の荒波を越えて沖合いに出ることもままならない。漁獲量も知れたものだった。
 それを知った日本は1992年、沿岸漁業振興計画の一環として、無償援助で漁船や船外機をこの村に贈ったのだが、その際、モーリタニアと日本の友好の印として両国の国旗を並べて貼った。事故現場に遭遇した少年は、その「日の丸」を見覚えていたのだった。
 その後も日本は、当初の計画通り、1994年にも漁船45隻、船外機61機を無償供与し、モーリタニアの沿岸漁業の漁獲高は大幅に伸びた。日本の技術指導によってエンジンの整備士も育ち、漁船エンジンの修理も自前でできるようになった、という望外の成果も上がった。
 そんなわけで、マンガール村の人たちの日本に対する感謝の気持ちは並々ならぬものがあったのだが、日本に恩返しをしたくても、その手立てが見当たらない。パリ・ダカの日本人の事故は、彼らが日本に恩返しをする千載一遇のチャンスとなったのである。
稀有(けう)な運命の巡り合わせが、日本とモーリタニアの友好を、さらに深めることになったのはいうまでもない。
参考資料・サイト


外務省 ODAちょっといい話
http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/oda/hanashi/story/africa/other1.html
.西アフリカの漁業振興(セネガル・モーリタニア)http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/oda/shiryo/hyouka/kunibetu/gai/h11gai/h11gai035.html

メルマガ発行:「日本を知る会」
http://日本を知る会.jp/








2011年12月19日月曜日

秦野シニアの3年生が久しぶりに試合を行いました。                                子ども達の成長した姿にびっくりです。

秦野シニア3年生が久しぶりの試合を行いました。
コベルコマテリアル銅管グランドに神奈川県中体連優勝校、関東学院のメンバーを中心に結成されている関東学院クラブを招いての試合です。
結果は大差で勝利させていただきました。
対戦相手も随所に良いプレーが出ていましたが、硬式にまだ慣れていない感じです。
捕球時にグラブが上から入り、体に近い所にあるために、ボールにグラブが弾き飛ばされていました。しかし、今後硬式になれてくれば、かなり良い成績を残すと感じました。
秦野の3年生は約3ヶ月間、きつい練習は避け、体のケアや高校見学をしていました。
その結果、体は一回り大きく成長しました。
井関監督が成長期の子ども達に追い込む練習ばかりではなく、減り張りを付けて指導した結果です。
これからは、進路が決まった3年生は高校入学までに少し体を絞り、高校野球について行ける体作りをしていきます。

2011年12月16日金曜日

日本会議神奈川西湘北支部会議


昨日、伊勢原において日本会議神奈川西湘北支部会議が開催されました。
教育改革や尖閣諸島問題、外国人地方参政権、選択的夫婦別姓反対運動の取り組みなどの報告された後、義家参議院からご挨拶をもらいました。
新政クラブからは村上代表、川口副議長と三人で出席をいたしました。

2011年12月7日水曜日

格言の勉強会《慈悲寛大自己反省》

月に一回モラロジー研究所平塚事務所の主催で教職員を中心に格言の勉強会が行われています。
講師は北雄二先生です。私もモラロジーの維持員でもありますので参加していますし、市PTAの会長なども参加しています。
はじめに唱歌を合唱して勉強会が始まります。今日の歌は『お正月』で、本題の格言は『自己の抑損して賢と良を推奨す』です。

2011年12月6日火曜日

北朝鮮人権侵害問題週間


北朝鮮当局による人権侵害問題に関する国民の認識を深めるとともに,国際社会と連携しつつ北朝鮮当局による人権侵害問題の実態を解明し,その抑止を図ることを目的として,平成18年6月に、「拉致問題その他北朝鮮当局による人権侵害問題への対処に関する法律」が施行され,国及び地方公共団体の責務等が定められるとともに,毎年12月10日から同月16日までを「北朝鮮人権侵害問題啓発週間」とすることになりました。

一刻も早い救出を望みます。

http://www.rachi.go.jp/jp/shisei/jinken.html
救う会神奈川
http://kanagawa.trycomp.net/

「グランパ」を視察





地元、市内戸川にある水耕栽培法の最先端技術を誇るグランパを環境産業常任委員会で視察に訪れました。
最新鋭のドームは太陽光を効率よく取り組み、防虫対策は万全、油バチを増やして油虫対策をしています。
発芽は水、酸素、温度を調和させる事の基本を大事にしているそうです。
レタスなどを試食させていただきましたが、最高に美味しいです。

女性宮家創出の本質的問題


女性宮家創出が話題になっていますが、本日の産経新聞正論で八木秀次教授が問題点を的確に捉えています。
世界最古の家系を保ってきた日本の皇室です。
女性宮家によって国柄を保てなくなります。
産経正論をご覧ください。

2011年12月5日月曜日

12月一般質問


1 学校教育について
2 各種イベントと式典について
学校教育に付いては主にラジオ体操と領土教育、そして朝礼について問をいたしました。
秦野市の学校ではラジオ体操を実施していない学校があります。子供育成会主催のドッチボール大会の準備体操がしっかりと身についていない子どもが目立ち、社会人になり職場で行うラジオ体操ができず、苦労する事も考えられるので、市内全校でラジオ体操を教育するべきと指摘しました。又、同時に運動会のプログラムにラジオ体操を位置づけるようお願いをいたしました。
 朝礼については塚本幼稚園の実践を紹介しながら朝礼を実施するように要望しました。
http://shiseikai-kosuge.blogspot.com/2011/10/blog-post_15.html
 領土教育については、第19回日本会議首都圏地方議員懇談会・幹事会で新藤義孝衆議院議員・下村博文 衆議院議員・稲田朋美衆議院議員・佐藤正久参議院議員から教えて頂いた、お話を引用しながら現在、使われ地図は日本の領土を切り貼りして掲載している欠点を指摘して、真正日本国図や東アジア地勢図を教材として取り入れるべきと要望しました。

各種イベントと式典については、成人式、市民の日、次第の統一性について質問をしました。
成人式を厳粛かつ静粛に行うために国歌斉唱を行うことや市が行うプログラムの概要に沿って行うように要望し、市長にも強い気持ちで臨むように励ましました。
http://shiseikai-kosuge.blogspot.com/2011/01/blog-post_9800.html
市民の日については、私の個展の出展基準に則していない個展が数店あった事実を追求して再発防止に努めるように要望しました。 
次第の統一性については、各種式典において必ず国旗・市旗を掲揚するように要望し、表彰がある式典は国歌斉唱の実施をお願いしました。

第7回はだの丹沢水無川マラソン




昨日、第7回はだの丹沢水無川マラソンが行われました。
全国から3600人を超える方々の参加を頂き、年末の秦野の風物詩になりました。
私は5kmの部に出場して何とか完走しました。
トップ選手の走りはすさまじく見とれてしまうほどです。
私は発汗を楽しみ、沿道に居る知り合いに手を振りながら5kmの旅を楽しみました。
ハーフの部にも以前は出場しましたが、時間制限が厳しく、体重増の影響で5kmにとどめました。
また、練習をしてハーフにもチャレンジします。

2011年12月3日土曜日

9月議会一般質問

一 スポーツ施設等について
問 スポーツに親しむことは、明るく元気に生活を送る上で極めて大きな意義を持っているが、本市のスポーツ環境は大変厳しい状態である。野球は時間制限で、サッカーは狭いグランドで試合をしている。
また、陸上競技場のトラックは土のため冬季は3か月間使用禁止となる。このようなスポーツ環境をどう認識しているのか。
答 施設の利用状況は増加傾向で、特に野球とサッカーは利用できる施設が限られており、利用できない場合があることも認識している。今後もスポーツ環境の向上に向けらに努力していきたい。
要望 水無川マラソンの10㌔㍍の部を復活させてほしい。
二 入札制度について
問 最低制限価格を75%に設定しているが、今後の考えはどうか。
答 コストに見合った適正な価格より受注できることが望ましいと考えており、入札執行状況の精、分析などを行い、適正な価格について絶えず検討していきたい。
三 パブリックコメント等について
要望 市民からの意見は議員が聞、市長とやりとりするのが普通と思うが、それを行わず、市長部局が市民からパブリックコメントにより直接意見を聞くことを危ぐしている。また、要綱における市民の定義があいまいと感じるため、見直しを考えてほしい

八田與一の功績


余り知られていない台湾における日本の功績
日本が統治していた時代嘉南平野の灌漑用水を確保するために命がけで造られたダムです。数年前には八田さんを描いたDVDアニメ「パッテンライ」が発売されて注目を集めました。
台湾のダムでは二つの自然湖の出口を塞ぎ、築いた日月潭などもあります。
日本の統治時代の偉業を見つけながら台湾を旅するとおもしろいですよ。
産経新聞を一読ください。